『セデック・バレ』鑑賞/道路名

映画「セデック・バレ」

5月1日(水)午前9時頃〜午前11時、トワ(永遠)と散歩する。

彼は三角広場をほんの10分ほど半周後、もっぱら吉祥寺南町3丁目の閑静な住宅街を縦横に往来しつづける。
この住宅街を走る大路と小路には、通りのいい名前がつけられている。
平成通り、ジョギング通り、うぐいす小路、みずき小路、ふれあい小路、どんぐり小路、光南小路、古桜小路、百歩坂の路、等々を、彼は元気な足取りで誇らしげに何度も往復、ただただ歩きつづけた。

■ Tさんと午後1時に、渋谷東急プラザ2階の2 PIECE CAFE(ツーピースカフェ)で会う。
彼は現在、早稲田大学教職大学院客員教授。今年度から当方の“教員免許状更新講習”の講師を務める。夏期&冬期の同講習開設の一講座「開かれた学校と危機管理」(3時間)を担当する。
午後1時から約2時間、講習全般の注意事項について、また講習全体における同講座の位置づけについて、彼に縷々説明した。

◆ 映画館・吉祥寺バウスシアターで、セデック・バレ [原題:賽徳克·巴萊/Seediq Bale、ウェイ・ダーション(魏徳聖)監督、2011年9月公開、日本での一般公開は2013年4月20日]全2部作を観る。
16:10〜18:40に第1部:「太陽旗」(144分)を鑑賞。続いて19:00〜21:15に第2部:「虹の橋」132分を鑑賞。上映時間は計約4時間40分。

本作は1930年の「霧社事件(むしゃじけん)」〜日本統治下の台湾台中州能高郡霧社(現・南投県仁愛郷)で起こった原住民(先住民)・セデック族による抗日暴動事件〜を描く。台湾映画史上最高額の製作費7億台湾ドル(約16億円)が投じられた歴史大作である。
セデック・バレとは「真の人」(セデック=人間、バレ=真実)を意味するセデック語。これは死を覚悟しながら、信じるもののため戦った者たちの命の尊厳を問う物語である。


セデック・バレ 第1部:セデック族は台湾中部の山岳地帯に住み、虹を信仰する誇り高き狩猟民族である。山深い桃源郷で大地と共存し、周囲の動植物と調和を保ちながら生きていた。しかし日本の「植民地」支配(日本化⇒文明化)により、彼らは「蕃人」(野蛮人)として蔑まれ、独自の文化や風習を禁じられ、過酷な労働と服従を強いられ、そして致命的なことに、先祖から受け継いだ狩り場(祖霊の地)を失っていく。
1930年10月27日、ついに日本人に対するセデック族の積もり積もった怒りが爆発する。セデック族の集落(全11社)6社の壮丁約300人がモーナ・ルダオ(セデック族マヘボ社の頭目)を指導者として武装蜂起、暴徒化し、日本人約140人を老若男女の区別なく殺害する。

セデック・バレ 第2部:日本側はただちに警官隊や軍隊のほか、セデック族で蜂起に不参加の集落・部族を「味方蕃」として動員し、蜂起側と熾烈な戦闘を展開する。日本軍は山砲・機関銃・飛行機・焼夷弾に加えて、国際条約によって禁止されていた毒ガス弾も投入する。
蜂起側は山間部でのゲリラ戦を展開し50余日にわたり頑強に抵抗した。しかし物量に欠けるがゆえの負け戦は必定、幾多の犠牲者を出した末、暴動・反乱は同年12月までにほぼ鎮圧された。一説によれば、セデック族戦闘員の約700人が戦死もしくは自殺し、約500人が投降し「保護蕃」収容所に収容される。さらにモーナのマヘボ社では、戦闘員の妻全員が自決する。

  • 私は霧社事件に関して、すでに中学生時代に、ある程度は知っていた。

当時、中学校の「社会科」教師だった私の父は、ちょっとした切っ掛けから、私に向かって「日清戦争」後の台湾問題を語りだし、ついでに「高砂族*1の抗日蜂起である「霧社事件」に言及した。
そもそも父は、台湾問題には特別な関心を持ちつづけていた。
彼は太平洋戦争末期に応召し、台湾へ派遣されるとのことで、いったん死を覚悟したとか。しかし、運よく日本内地に待機中に「敗戦」を迎えて、どうやら一命が助かったとか。以来、すぐれて台湾の歴史問題を、日本および中国との関係史に照らして、自分に引き寄せつづけていたように思う。

  • 私の場合、特に1990年代後半以降、「日本の近代化とナショナリズムの問題」をテーマ化し、突きつめて考えつづけた結果、今更のように台湾問題の重大性に気づいた。

問題の根は、すでに1874年(明治7)5月の「台湾出兵」にあった。事態は「近代日本」最初の対外武力行使、そして最初の植民地獲得戦争にほかならなかった。
…やがて1894〜95年の日清戦争の勝利にいたり、台湾・遼東半島などの新領土を獲得するとともに、巨額の賠償金がもたらされる。
その後、日本は時勢の赴くままに、1904〜05年の日露戦争→14(大正3)〜18年の第一次世界大戦→18〜22年のシベリア出兵→37(昭和12)〜45年の日中戦争→41〜45(昭和20)年の太平洋戦争という、抜きさしならない・憂慮すべき・破滅的な事態に追いこまれていく。
この一連の、いわゆる「進出・ナショナリズム」の過程の全側面において、それまでの(ペリー来航以来の)欧米列強に対する“劣等感”が一転してアジア諸国に対する“優越感”と化し、列強の一員として少なくとも軍備においては列強と対等でなければならぬという意識が生じる。

  • 1930年、台湾で衝撃的な霧社事件が勃発する。他方、大陸でもこの時分、何かとキナ臭く血なまぐさい事件が続発する。

(1927年から28年にかけて3度にわたる日本の山東出兵)
1928年6月4日…張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件
1931年6月27日…中村大尉殺害事件
1931年7月2日…万宝山(まんぽうざん)事件
1931年9月18日…柳条湖(りゅうじょうこ)事件(満州事変)
(1932年1〜3月、第一次上海事変
1935年11月9日…中山水兵射殺事件
1936年9月23日…上海日本人水兵狙撃事件
1937年7月7日…盧溝橋(ろこうきょう)事件
1937年7月26日…広安門(こうあんもん)事件
1937年7月29日…通州(つうしゅう)事件
1937年8月9日…大山中尉殺害事件
(1937年8〜11月、第二次上海事変
(1937年12月、南京攻略戦→南京事件

  • 南京事件日中戦争の1937年に日本軍が中華民国の首都・南京市を占領した際、約6週間から2ヶ月にわたって中国軍の便衣兵・敗残兵・捕虜、一般市民などを殺戮したとされる事件である。

この事件については、事件の存否・規模を含め、様々な論争が存在している(南京大虐殺論争)。
問題はこの南京大虐殺論争がこれまで学術論争ならぬイデオロギー論争に終始してきた点である。
南京事件は「まぼろし」であるとか、ないとか。(大)虐殺は「あったか」、「なかったか」とか。
論争当事者は〜「30万人虐殺批判派」にせよ、「30万人虐殺肯定派」にせよ〜、歴史の真実を知りたいのではなく、自分の信条=偏見を正当化したいだけであり、もっぱら「ためにする」議論に明け暮れてきた。

人間にとって最も重要な能力=人間力は何だろうか。それは「コップの中の嵐」にこだわる専門知=分析知でもなければ、現実を拒否する空想力でもない。現実をトータルに再構成する想像力、これを措いてほかにはない。
太平洋戦争後の日本人は、端的に問われつづけてきた。「進出・ナショナリズム」→国権の発動たる戦争という時代状況全体の歴史的文脈を一体どこまで、わがこととして根本的に理解できたのか、と。
台湾での霧社事件はおろか、中国での南京事件も、事件の全体像が現前するのは、どこまでも私たち日本人一人ひとりの豊かな想像力にかかっている。

私は高校生時代に、偶然が重なって、日中戦争時の中国戦線で部隊指揮に当たった将校Uさんと何度か面識を持った。
彼は平生、素面のときは物静かで口数が少なく温厚な人である。だが、酔うほどに、彼は激変し、饒舌にしゃべりまくる。ややもすると、往時の陸軍士官学校卒の自らのエリート性を鼻にかけたり、世が変わって零落した自らのふがいなさを愚痴ったりする。
そして、ひどく酩酊し、涙もろくなったときだ。彼は突如として、遠くを放心気味に眺めるかのように、大陸での戦場のむごたらしさ・すさまじさを、まるで事実を証言するかのように、ぽつぽつと話しだす…。
彼は軍人として身をもって砲煙弾雨の戦場を体験した。中国戦線で敵の機先を制して攻めかけたり、敵の出方を瀬踏みしたり、敵の逆襲に遭ったり、敵の襲撃に対処したり、敵を山中で要撃したり…。彼が生々しく物語る凄惨な体験談の中でも、今なお私の耳に残って忘れがたい話がある。

彼は戦況が膠着するほどに、たびたび斥候を放って敵軍の動きや地形をひそかに探り出すよう努めた。ところが、その斥候が奥地に分け入るほどに行方不明になったり殺害されたりで、部下思いの彼にはどうにも我慢のできない状況が打ち続いた。
やがて彼は敵側が「軍民」一体となって抗日戦争を戦っている事実に気づかされ、次第に中国民衆といえども〜侮華思想(中国を下に見る思想)もあらわに〜、容赦はしない思いにとらわれていく。
長引く戦乱に疲れた彼の部隊はやみくもに、そこらの「怪しき」民家に押し入り、食料などのめぼしいものを徴用し、「怪しき」民兵や「小うるさい」女子供を押し込めた上で火を放つ…。この蛮行は一再ならず繰り返された。

彼が人家も人間も一緒くたに焼き打ちにするおぞましい光景を思い返した瞬間、薔薇(ばら)のように酩酊した彼の目が何か異様で残忍な光を湛えた。
そして直後、彼がポツンと「わしらの行為は戦犯ものなんだな…」と言った瞬間、彼の目が今度は不安げにせわしなく動きつづけるのだった。

セデック・バレ には、私の感性と理性に訴えるシーンが多々あった。
・本作は大いなる自然の豊かさを謳歌する。
幽邃(ゆうすい)な深山、緑したたる渓谷、谷間に咲き誇る幽婉(ゆうえん)な花、鬱蒼と生い茂る樹林、潺々(せんせん)と流れる渓流…。
私は画面に見入りながら、まさに自然が息づく深山幽谷の世界に魅入られるとともに、この大自然の懐にいだかれて生きるセデック族のおおらかさ・たくましさに心情的な共感を呼び起こされつづける。

・男たちの長期的な戦闘ゆえの食糧難を見越して、女たちが集団自決を決意、森の中で次々と首を吊る…。この凄愴な情景は、したたかに私の胸を打つ。

・モーナ・ルダオが清冽な川のほとりで、亡父の幻影と一緒に歌唱する、いわば父子相伝の場面は、不滅の命を思わしめるものがあり、柔らかく私の胸を締めつける。

・本作中の登場人物、花岡一郎(ダッキス・ノービン)と花岡二郎(ダッキス・ナウイ)は、最も強く私の問題意識をかり立てる *2
この2人の若者は共に、セデック族ホーゴー社出身ながら、優秀な「蕃童」⇒「模範生」として「日本人のための」学校教育を施され *3、そして日本名を与えられ、警察官として日本人社会の機構の一端を担っていた。
ダッキス・ノービン⇒花岡一郎は、1907年に生まれ、28年に台中師範学校卒業、巡査となり、29年7月に川野花子(オビン・ナウイ、ホーゴー社頭目の妹の娘)と結婚。
ダッキス・ナウイ⇒花岡二郎は、1911年に生まれ、28年に埔里小学校高等科卒業、警手(巡査に次ぐ職位)となり、29年7月に高山初子(オビン・タダオ、ホーゴー社頭目の娘)と結婚。


一郎・花子、二郎・初子、両夫婦4人は全員、セデック族出身の「日本人化された“模範的な”先住民族」だった。それは当時、日本統治下の「日本人」であり、「内地の日本人」とは同じ権利(ex.選挙権)を認められない「外地の日本人」という存在で、「帝国臣民」とも呼ばれた。

一郎と二郎は事件に臨んで、日本人かセデック族かの、のっぴきならない運命の相克に苦悶する。
彼らはモーナ・ルダオから、お前たちは死後に「日本の神社」に行くのか、それとも「虹」を渡るのか(⇒セデック族の祖先と永遠に生きるのか)と問いかけられて、いったんは決死の覚悟で蜂起する道を選ぶ。

しかし現実がむき出しになるに伴い、日本人への恩義と、セデック族としての矜持(きょうじ)という二つの気持ちの間で揺れに揺れ、「日本人」として戦うことも「セデック族」として戦うことも両方かなわず、結局のところ一郎は妻子(花子と嬰児)と心中し、二郎はその一家心中直後に縊死する(初子のみ生き延びる) *4

二人の死に際の思想的たたずまいが注目される。
一郎は蜂起に際して「日本式」警官用制服をセデックの民族衣装に着替えた。ところが、ゲリラ戦が戦われる森の中で、今度は当の民族衣装を「日本式」和服に着替え、セデック族の伝統的な刀で「日本式」切腹自殺を図る。そして、そこに現われた二郎と、次のような問答を交わす。

一郎がセデック語で問う。「二郎、俺たちは天皇の赤子か?セデックの子か?
二郎がセデック語で答える。「切れ、葛藤を切り裂け!どちらでもない自由な魂になれ!」「腹を切り裂き、中にある矛盾をすべて出してしまえ、俺が最期を看取ってやる!」
一郎は同じ運命に悩んだ親友二郎の思いを受け取りながら、腹の底から絞りだすような声で、最後の一言を日本語で言う。「ありがとう」

この場面の一語一語がひしひしと私の胸に迫る。私は彼らのアイデンティティの分裂状態に針で突かれたような痛みを覚える。
日本化と文明化の名の下に、日本の統治下に置かれた台湾では、台湾原住民がいかに窮地に追いつめられていったか。その魂の切ない悲鳴が私の耳に突き刺さる。

*1:台湾原住民は日本統治期(1895〜1945)当初は「蕃人(ばんじん)」ないし「生蕃(せいばん)」と呼ばれ、1935年に公式に「高砂族(たかさごぞく)」と改称される。

*2:両人は共に実在の人物である。同じ花岡姓だが、兄弟ではない。

*3:当時、台湾人子弟の通う学校と日本人子弟の通う学校は、明確に区別されていた。

*4:1930年11月8日、花岡一郎一家と花岡二郎の自殺遺体が発見される。