トワ、そしてポチ 〜在りし日の思い出〜

幾春別川

5月8日(水)午前9時20分〜午前11時30分、トワ(永遠)の散歩。

トワと私は、井の頭公園の三角広場で、自由な時間・130分余を気ままに心ゆくまで楽しんだ。

  • ところで、今日はトワが「わが家族」の一員となった経緯(いきさつ)を少しばかり述べておきたい。

トワは捨て犬だった。
忘れもしない。2001年7月6日(金)〜七夕(しちせき・たなばた)の節句の前日〜の夕暮れ時、私が帰宅して1階の居間にあがると、そこに子犬が弱々しく、ちょこなんと座っていた。
「アレ、どうしたんだ !?」 私は子犬のかたわらに寄り添う、わが息子に問うた。
彼が答える。「これから、家族が一人ふえるからね」

彼は切々と語った。
・午前10時頃、彼が京王井の頭線に乗車しようと井の頭公園駅に向かう途中のこと。
三角広場の西端にある公衆トイレを利用する。その直後に、何気なくトイレ近くの草薮に目をやると、そこに白い子犬が居すくまっているではないか!
・彼の視線と子犬のそれが甘く絡み合う!彼は思わず子犬を抱き上げると、周囲に飼い主がいないか探し回る。しかし、あたりに人気(ひとけ)はなかった。
・彼は子犬を抱きかかえて、井之頭公園駅前交番に直行→子犬(行方不明犬)の捜索願いが出されていないかを確認→子犬が捨て犬ならば自ら引き取る旨を「お巡りさん」と確約。
・警察官いわく、「まず捨て犬だと思いますが、飼い主が出るか1週間ほど様子を見ましょう」。
「子犬思い」の彼は即座に、「さしあたり」1週間は、子犬を自宅に迎える決断を下す。

子犬は生後2週間足らずの、愛らしい小犬だった。草薮に一晩放置されたままだったのか、いささかならず衰弱していた。
彼は子犬との運命的な出会いを喜んだ。そして、いとおしさが込み上げてくるのか、子犬の世話に全力を尽くした。
近所の獣医さんに子犬の診断を仰いだり、子犬への栄養補給に腐心したり、夜(よ)を徹して子犬の看護に没頭したり…。それは涙ぐましいほどの一途な努力だった。

1週間がたって、問題の飼い主は現われなかった。子犬は天下晴れて「わが家族」の構成員となった。
子犬はめきめきと体調を回復し、元気な振る舞いが目立ちはじめた。
子犬の名前は、わが女房の発案で、「トワ(永遠)」と付けられた。

私は女房に向かって言った。「トワ(永遠)…。センスがいい!」
一瞬、私は少年時代に観たアメリカ映画『地上(ここ)より永遠(とわ)に』を思い起こしたものだった。

[註:この作品(原題: From Here to Eternity、フレッド・ジンネマン監督、1953年)は、太平洋戦争開戦直前、離島(ハワイ・オアフ島)の陸軍基地に滞留する米軍兵士たちの内情を赤裸々に描いたミリタリードラマ。
出演者にはモンゴメリー・クリフトバート・ランカスターフランク・シナトラ、デボラ・カーといった錚々たる顔ぶれがそろう。第26回アカデミー賞では、『ローマの休日』を抑え、作品・監督など8部門で栄冠に輝いた不朽の名作だ。
私の映画鑑賞史上、鮮烈な印象〜絶望的な命がけの友情、男女の情熱的な恋、日本軍機の真珠湾奇襲など〜がしっかりと記憶に刻み込まれた作品にほかならない。]

私はトワの“痛み”を共有する息子に向かって言った。「トワがすくすく成長できるよう、これからオレもオマエに積極的に協力していくよ」
瞬間、私は北海道での「幼年・少年」時代に共に過ごした愛犬ポチを脳裏に浮かべたものだった。

  • かつて3歳の私は、10歳の姉に連れられて、自宅近くの寺の境内で遊んでいた際、生後1週間足らずの捨て犬を発見する。

→姉と私はその、いたいけな子犬を抱きかかえて、小走りに帰宅し、しきりに両親に「この子犬、捨てられていたの、かわいそうだからウチで飼いたい!」とせがみつづける。
→両親、特に父親がはっきりと言った。「それほど真剣に思う子犬なら、ウチに迎えてもいいよ。ただし忘れちゃいけないな、子犬の面倒を見るのは、お父さん・お母さんじゃない、オマエたち自身だということ。これから、きょうだい(姉弟)が力を合わせて、子犬を末永くかわいがってあげなさい…」
→姉は子犬を「ポチ」と名付けた。ポチは当初、自宅の庭に建った犬小屋につながれ、程経てその庭にめぐらした柵の中で飼われた。

・ポチは雑種の雄犬で、たくましい生命力を秘めていた。長ずるにつれて中型犬(大型犬に近い中型犬?)となり、何事につけて機敏に立ち回り、気丈に振る舞う力、そして人間の心情を感受する力〜総称して賢い“犬力(けんりょく)”〜を身に付けていった。

・ポチの力量の何たるかを知らされて驚いたことがある。
彼は2歳頃から、日課の「散歩」以外に、1週間に1、2度の「自由な運動」を満喫することができた。それは彼の放し飼い、つまり彼を地域社会全体に文字通り「野放し」にすることである。
彼はこの野放しの結果、あたり一帯を占拠する何頭かの野犬にあらがいながら、何と4、5歳頃には多くの野犬をたばねるボスにまで上り詰めていた。
この間、どうかすると彼は自分のねぐら(わが家の庭)に二十数頭の野犬を引き連れて戻ったものだった。その異様な光景を目撃した私の両親が悲鳴に似た叫び声をあげたことを、私は今なお郷愁のように思い出す。

・少年時代の私は、ポチの野放し状態が続き、一人さみしく、夜も眠れないほど心痛したことがある。
彼が「自由な運動」に出て、2、3日帰宅しないのは日常的だった。野放しの自由を謳歌してのことと得心が行った。
しかし、彼が2週間ないし3週間たっても帰宅しなかったとき、さすがに心中が穏やかではない。野犬と戦って死んじまったんじゃないか、それとも残酷な人間からムゴイ仕打ちを受けたんじゃないか…。
やがて彼が何はともあれ〜時に悠揚と、時に疲れ果てたように〜帰宅したとき、私が喜びで飛び上がらんばかりになったことは言うまでもない。

ポチは18歳の天寿をまっとうして逝った。悔いが残ることに、私は彼の死に目に会えなかった。
私は彼が15歳のとき、北海道の親元を離れて、東京で自活した。
彼が17歳のとき、私は2年ぶりに帰郷し、彼に最後の別れを告げた。
彼は視力や聴力が衰え、足腰が弱まり、まさに老残の身をさらしていたものの、私が「ポチ、ポチ!」と大声で何度も呼ぶと、尻尾を静かに振りながら、相好を崩して、私を迎え入れた。
彼の最期をみとったのは、私の父だ。彼は眠るように身罷(みまか)ったという。
父は彼の遺骸を、彼と私がかつて一緒によく戯れた幾春別川石狩川水系)に水葬した。

                            ↓ 幾春別川の上流