澤地久枝「明日につなぐ命」

5月25日(土)午前9時〜午前11時、トワ(永遠)の散歩。

井の頭公園三角広場を一巡後、夕やけ橋→神田川遊歩道三鷹台駅久我山住宅街→吉祥寺住宅街をめぐり歩く。この間、約1時間20分。
そして、三角広場に戻って半周→木陰で一休み後、帰宅する。

◆ 午後2時から、武蔵野公会堂で、澤地久枝(さわち・ひさえ)の講演「明日につなぐ命」を聴く。
この講演会は「武蔵野市非核都市宣言平和事業実行委員会」主催の「平成25年度武蔵野市憲法月間記念行事」として開かれた。

会場に集まった人はおよそ300人[公会堂ホールの定員は350人(固定席)、空席がちらほら目についた]。
私にとって興味深いのは、参加者の年齢層の問題だ。
記念行事だから、老若男女〜年齢や男女の別なくすべての人々〜が集うか。それとも、ホットな「憲法」問題に関する講演会だから、若者は疎外され、主として老人が集うか。
実際は、ざっと見渡したところ、「老人」=「高齢者」(一般に65歳以上の者)が参加者の過半数を占めていたのではないか。
若者、主として20代前後(10代後半〜30代前半)の青少年にいたっては、皆無ではないが少数にすぎなかった(私の知る20代後半の者が2人参加)。
30代後半〜50代の人々は、全体の高々2、3割ぐらいだっただろうか(私の知人で40代が1人、50代が2人参加)。
どうやら、直観で言うと、60代以上の年齢層が参加者の圧倒的多数を占めていたようだ。
しかも注目すべき点は、この60代以上の人々の過半数が女性であり、その60代以上の女性の過半数が65歳以上の高齢者=「老女」であること*1
要するに、世代論的に言えば、今回の「澤地久枝」講演会に最大の関心を向けた世代は誰あろう、多数の「老女」なのだ。
現代日本社会の「戦後」民主主義の質〜戦後約70年、「この国」に民主主義は定着しているか〜が問われるゆえんである*2

澤地久枝(さわち・ひさえ、1930〜)は私の人生史上、最も関心のあるノンフィクション作家の一人だ。
私は1970年代から80年代前半にかけて、数多(あまた)のノンフィクション作家の中で、特に柳田邦男(1936〜)、立花隆(1940〜)、沢木耕太郎(1947〜)、そして澤地の4人に注目し、各自のほぼ全著作を読みつづけた。この4人の作家は種々のレベルで、私の思想世界に何らかの影響を及ぼしたと思う。

柳田邦男『マッハの恐怖―連続ジェット機事故を追って』フジ出版社、1971年
同『狼がやってきた日』文芸春秋、1979年
同『マリコ』新潮社、1980年
同『事実からの発想』講談社、1983年

立花隆田中角栄研究』講談社、1976年
同『日本共産党の研究』講談社、1978年
同『農協』朝日新聞社 1980年
同『脳死中央公論社、1986年

沢木耕太郎『敗れざる者たち』文藝春秋、1976年
同『人の砂漠』新潮社、1977年
同『テロルの決算』文藝春秋、1978年
同『一瞬の夏』新潮社、1981年

澤地久枝『妻たちの二・二六事件中央公論社、1972年
同『密約―外務省機密漏洩事件』中央公論社、1974年
同『火はわが胸中にあり―忘れられた近衛兵士の叛乱-竹橋事件角川書店、1978年
同『石川節子―愛の永遠を信じたく候』講談社、1981年
同『もうひとつの満洲文藝春秋、1982年

私の見るかぎり、彼ら各人は守備範囲の広狭に関わって、その筆法と筆鋒に一長一短があった。
ここでは、その問題点を取り上げて、何かとあげつらうつもりはない。
ただし、澤地の輝かしい長所〜瞠目するに足る思想性〜だけは指摘しておきたい。

そもそも彼女には、ひたむきな仕事への並々ならぬ執念がある。
彼女の終生の事業は、太平洋戦争・大東亜戦争へと至った日本の昭和史の実相に限りなく肉迫することである。そこには、何としても真実を明らかにしようという執念がふつふつと燃えつづけている。

彼女の場合、この執念という「こだわり」の念は、「幼女・少女」期の苛酷な体験に端を発する。
4歳の時に旧満州へ移住し、1945年の敗戦で1年間の「難民」生活の後、辛うじて日本に引き揚げる…。
彼女は心底思った。「もう戦争はご免だ!戦争を二度と起こしてはならない!」

その後、彼女は中央公論社の社員(雑誌記者約10年)→作家・五味川純平(1916〜95)の資料助手などの経験を重ねる。
彼女の激しい執念は、しだいに歴史的・社会的な意味を獲得した思想的構えをもたらす。
そこでは、強靭な理念的方向性が開示されるとともに、現実の人間と社会のあり方が模索される。

・ところで、彼女の講演のこと。
話はアベノミクスの欺瞞性から始まった。
そして1時間半ばかりが経って最後に、こう締めくくられた。「ひどい政治状況ですが、憲法改悪を阻止し、憲法9条を守るのも、結局は私たち有権者の意識にかかっています」と。

私は長い間、彼女の著書の愛読者ではあったが、彼女の肉声を聞くのは今回が初めてだった。
噂通り、彼女の声は凛と響く。私の耳に心地よい。
そして、口をついて出る言葉の端々には意志的な強さがあり、実感と力がこもっていた。
しかし問題は、ストーリーの展開の仕方である。

彼女は最初に断っていた。「この大変危機的な状況下、言いたいことが山ほどある、一杯ある…」と。
なるほど、彼女ほどの時代状況に敏感な文筆家なら、今はまさに万言を費やしても言い尽くしがたい危機感・いらだたしさ・腹立たしさを覚えつづける毎日だろう。
だが、そうは言っても、彼女の場合、「九条の会*3の発起人の一人として深刻な危機に立ち向かう以上、時間的制約下の講演内で、どうすれば一般大衆に効果的なメッセージを発信できるか最大限の工夫を凝らす必要がある。

彼女は一体、何を一番主張・強調したかったのだろうか。
講演では、近・現代日本史上の人物に関するエピソードが数多く語られた。特に丸岡秀子(1903〜90、社会評論家)と松本重治(1899〜1989、ジャーナリスト)に関して比較的長い時間が割かれたように思う。
私はその間、あくびが出るほど、ひどく退屈した。
なぜか。私がその種のエピソードを熟知していたせいだろうか。否、実のところ、「戦後」民主主義の賞味期限が切れかかった今日的状況下に今更めく人物が取り上げられて興ざめしたからにほかならない。
ストーリー全体の骨格を押さえず、いたずらにアレもコレも網羅するのでは、話のまとまりを乱し、散漫に流れてしまうのが落ちだ。謹聴する者にとって、雑多な話があちこちに飛んでいれば、話題の焦点がぼけてしまい、結局とりとめのない雑談との印象が心に残ることになりかねない。

・翻って考えると、彼女は昭和5年9月3日生まれ、まもなく満83歳になる。
私は講演のあるべき手順・方法について、“無い物ねだり”をしているのかもしれない。
今はただひたすら謙虚に、老いてなお反骨精神(反戦文学一筋を貫いた師の五味川純平の魂を受け継ぐ)を発揮する彼女に、敬意を表すべきなのだろう。

彼女は2011年9月19日の「さようなら原発5万人集会」(場所:東京都新宿区の明治公園、主催:「さようなら原発一千万署名」市民の会、参加者約6万人)で、「呼びかけ人」の一人として、おめず臆せず堂々と、次のような意思表示をしている。(ちなみに、私は当日、北海道札幌市に滞在中で、集会には不参加。)

こんにちは。みなさん、よくいらしてくださいました。こんなにおおぜいの方が参加してくださって、どれだけうれしいでしょう。
最初の記者会見の後、私は姿を消していました。ひざの骨折と、それから手術ということで、50日あまり入院をしたんですね。家に帰ってからも、足腰がなえて、回復がとても遅かったと思います。しかし、きょうは、どんなことをしても立って参加しようという意思が、私を立ち上がらせ、歩かせたんだと思っています。(拍手)
昭和の時代には、15年におよぶ戦争の日々があり、沖縄戦と広島・長崎への原爆投下のはてに、敗戦をむかえました。人類は日本という実験場で、初めて原爆を体験したのです。日本は実験場だったと思った方がいいと、私は思います。その日本に54基もの原発ができ、福島の事故から半年たっても収束の手立てがないことは、原発の本質と歴史の痛烈な啓示を示してはいないでしょうか。この国は、原発などを持ってはいけない国だったはずです。(拍手)
核が暴走を始めてしまったら、人類はその暴走をとめたり、コントロールするノウハウを、まだ持っていないんですね。そういう危険なものは、地球には必要がないと思います。日本だけが原発ではすみません。放射能は海をこえ国境をこえて広がっていきます。これは防ぎようもないのです。
原発を含む日本の電力会社は、過去何十年間か、抜群の大スポンサーでした。どこに対するスポンサーであったかは、あえて言いません。みなさんよく、ご存知だと思います。何百億円という現金が、原発の安全性PRと推進のために使われ、その毒は広く広がったようです。事故の直後から、原発東京電力批判をさしひかえ、暗に原発擁護の言説が大手を振ってまかり通っています。とくにテレビを見てください。ひどいものだと思います。(拍手)
最近、東京電力が役所に最近提出した報告書類は、本文のほとんどが抹消の黒線で消されていました。なんと無責任でごうまんな姿勢なんでしょうか。こういう実にレベルの低い、責任を問わない、非科学的な人々に、私たちの命が握られてきたと思うと、本当に寒気がします。
事故直後、年間被ばく許容量の数字を大きく変えた政府発表は、以後の発表に深い不信を抱く原因をつくったと思います。その限度量さえ超えて、事故現場で働く作業員の生命は、誰が保証するのでしょうか。多くは下請けの労働者なのです。東北はいつも、いつも、棄民、棄(す)てられる民の対象となってきた、割を食ってきた、歴史的に、ひどい歴史をしょっていると思います。わが子の健康を案じ、住むべき場所、食べさせるものに悩む母親たちが、いっぱいいます。事実を知りたいと、彼女たちはみんな望んでいます。知らなくては、対応のしようがないんです。
原発がなくしたら電気が不足し、日本経済は成り立たない、雇用が減り、失業率は増え、貧しい二流、三流の国になる、展望を失った暗い社会が訪れると、威嚇まじりの原発擁護が、おおっぴらに語られるようになりました。
しかし、就職難、不景気、委縮しがちな世相は、原発事故以前から慢性症状として、あったのではありませんか。今ここで、すべて原発帰納して、「だから原発が必要だ」という考え方は、どこかですり替えが行われています。ウソがあります。
私たちは、政治不在の、この社会を変えようとして、政権交代を実現させたんですが、しかし、ですね、政治不信が生まれることは自然なことです。しかし結末は、結果は、私たちに返ってきます。希望とは、道を見出すべく残されているのは、自覚し考える個の確立と、個と個の連携、その広がり、つまりは市民運動ではないでしょうか。きょうの集会のこの盛況、また、1000万市民の「原発さようなら」の署名は、私たちが求める新しい国作り、世直しに、道を開くと思い、私はそこに希望をつなぎます。
時間がきついんですけども、同時に、今回の原発事故の原因と経過の真相究明を徹底させたい、政府と東電の秘密主義は、原発事故に限らない、この国の悪しき体質を反映しているからです。(拍手)
きょうおいでになっている、とくに女性の方たちに語りたいと思います。きょうまで一人の戦死者も出さなかった戦後は、二度と戦争はさせないと決心した、戦争を体験した日本の女たちの力だと思います。地球と命を守り、平穏な未来を確保するべく、命を生み育む女性たちが、役割を果たすべきときは、いまです。血縁を問わず、国境をこえて、命を守る闘いには、その夫・恋人・友人たちも、闘いの同志に連なるでしょう。その周りには、私のような高齢の思いを同じくする人間がいることを、確かめあって進んでいきましょう。老若、老人と若者ね、老若同盟と、なくなられた加藤周一さんは言われましたが、老若男女(ろうにゃくなんにょ)を問わぬ、人間のとりでを築いていきましょう。ここで私たちは負けることはできないのです。みんなでいっしょに、力を合わせていきたいと思います。きょうは本当に、ありがとうございました。(拍手)

私はこの揺るぎない“信念”の人に畏敬の念を禁じえない。
そして、上記の発言(全文)中に見える、「自覚し考える個の確立と、個と個の連携、その広がり、…」との思想的水位に、わが意を得たりの心情的共感を覚える。

*1:今日的語法として、「老人」が個人を指す場合は男であることが多い。女性については、「老婦人」「老女」「老婆」などを用いることが多い。

*2:一般的に人生の諸段階は、社会的・文化的事象としての〈子ども〉〈おとな〉〈老人〉の3範疇に分けられる。〈子ども〉はまだ家を超えた生産関係のネットワークに加入していない世代、〈おとな〉はその生産関係のネットワークの中心的な担い手となる世代、〈老人〉は生産関係のネットワークから退き、生産手段を後世代に譲り渡した世代。

*3:九条の会」とは、2004年6月に、日本が戦争を永久に放棄し戦力を保持しないと定めた「第9条」を含む日本国憲法の改訂を阻止するために、日本の「護憲派」知識人・文化人、9人によって結成された会。9人は井上ひさし(作家)※、梅原猛(哲学者)、大江健三郎(作家)、 奥平康弘憲法研究者)、小田実(作家)※、加藤周一(評論家)※、 澤地久枝(作家)、鶴見俊輔、(哲学者)、三木睦子(国連婦人会)※(なお、※はすでに故人)。同会の「アピール」(2004年6月10日)文中には、次のような一文が見られる。「私たちは、平和を求める世界の市民と手をつなぐために、あらためて憲法九条を激動する世界に輝かせたいと考えます。そのためには、この国の主権者である国民一人ひとりが、九条を持つ日本国憲法を、自分のものとして選び直し、日々行使していくことが必要です。それは、国の未来の在り方に対する、主権者の責任です。日本と世界の平和な未来のために、日本国憲法を守るという一点で手をつなぎ、『改憲』のくわだてを阻むため、一人ひとりができる、あらゆる努力を、いますぐ始めることを訴えます。」