Teiを想う/「樺太の戦い」

6月26日(水)、AIR DOエア・ドゥ)24便(14:00発)で、新千歳空港から羽田空港に向かう。…
午後7時半頃、東京都武蔵野市吉祥寺南町の自宅に帰る。

● Teiの死の重みを受け止めながら、彼の生前の姿に思いを巡らしたい。

・私がTei(1935年2月10日生まれ)と初めて会ったのは、たしか1958(昭和33)年のある日、姉が交際相手の彼を両親に紹介するために、わが家に招じ入れたときだった。
当時、私は中学生で、彼は北海道大学を経て、札幌医科大学に学ぶ大学生。少年時代の私にとって、彼はさわやかな立居振舞が印象的な人だった。

・私の姉は61年10月1日、彼と結婚式を挙げる。
その際、媒酌人を務めたのが札医大胸部外科教授の和田寿郎(わだ・じゅろう、1922〜2011)だった。
和田寿郎と言えば、ワダ弁(人工心弁)の開発や、68年に日本初の心臓移植手術を執刀したことで世に知られた医師。
だが、その心臓移植の際にドナーとレシピエントを共に殺したのではないかという強い疑いをかけられ、同年に殺人罪刑事告発される(70年、「和田心臓移植事件」は不起訴処分)。

彼は和田寿郎の門下生、和田心臓移植事件に関わる医師グループの一員だった。
その後、札幌市立病院の外科医師となり、定年まで勤めあげる。

・45(昭和20)年8月15日は、第2次大戦において、玉音放送昭和天皇による「終戦詔書」の朗読放送)により、日本の(「ポツダム宣言」受諾による)降伏が国民に公表された日だ。
この時、彼は10歳、樺太(からふと)[樺太島の内、北緯50度以南の地域(いわゆる南樺太)及びその付属島嶼]の国民学校初等科5年に通学する“少国民”(天皇陛下に仕える小さな皇国民)だった。

同年8月9日、ソ連が日ソ中立条約を破棄して対日参戦。
8月11日にソ連樺太に侵攻、8月25日まで日本とソ連の間で樺太の戦い」が戦われる。

樺太の戦い(日本本土最後の地上戦)では、日本軍の損害は戦死者700人ないし戦死・行方不明2000人とされる。ソ連軍の記録によれば、日本兵18302人が捕虜となった。
しかも悲惨なことに、多くの民間人が戦渦に巻き込まれて被害を受ける。

当時、樺太には40万人(一説によると45〜46万人)の日本の民間人が居住しており、ソ連軍侵攻後に北海道方面への緊急疎開が行われた。
当初の計画では、疎開の対象者が65歳以上の男性と41歳以上の女性、14歳以下の男女とされ、16万人を15日間で海上輸送することが目標だった。
しかし実際上(8月23日、ソ連軍は樺太島外への移動禁止を通達)、緊急疎開に成功したのは、目標の約半数にあたる約76000人。その後の密航による自力脱出者約24000人を合わせても、樺太住民の1/4以下だけが何とか島外へ避難できた。
この間、民間人の被害は軍人を上回り、死者は約3700人に及ぶ。

例えば、8月20日、「真岡郵便電信局事件」が起こる。⇒郵便局に勤務中の女性電話交換手12名が集団自決を図り、9名が死亡する。
8月22日、「三船殉難事件」が起こる。⇒樺太からの婦女子を主体とする引揚者を乗せた日本の引揚船3隻がソ連軍の潜水艦による攻撃を受け、1708名以上が犠牲となる。
なお、極度の混乱の中で、8月18、20〜23日には、スパイ容疑がかけられた朝鮮系住民が日本の警察官や民兵によって虐殺されるという悲劇も生じている(「樺太朝鮮人虐殺事件」)。

Teiは母親・妹(4歳)・弟Ko(2歳)と一緒に、辛うじて「真岡郵便電信局事件」後の引揚船に乗船し、縁故を頼って北海道→仙台に疎開する。
だが、一家の大黒柱、高等女学校教師の父親Chutaroは、自力脱出もかなわず、樺太残留を余儀なくされる。Chutaroが仙台へ引き揚げることができたのは、ソ連の行政下の樺太(サハリン)に拘束されて3年後のことだった。
そして、悲劇性が倍加したのが、仙台生活が開始して数日後、いたいけなKoが栄養失調で亡くなったこと―。

この世の辛酸をくぐり抜けた彼は、負けん気が人一倍強い男だった。
彼は10〜15歳は仙台で、16〜22歳は(北海道)岩見沢で過ごしながら、何はともあれ心身共にたくましく、すくすく成長していった(身体強健で、この年代の日本人としては長身=1m75cm)。

・彼は多芸多才な人だった。文武両道に秀でていた。
武事については、「軍国少年」時代に素地ができたのか、中学・高校・大学を通して特に剣道・弓道居合道に練達する。
また、文事については、読書家で、(少なくとも20〜30代を通して)幅広い分野の書物に目が行き届き、声楽と器楽にも優れていた。バリトンの美声の持ち主で、ギターもバイオリンも弾き、ピアノが堪能、おまけにハーモニカを自在に吹き鳴らす技は絶妙だった。

・ところが彼の場合、最大の問題点は(1)「樺太の戦い」体験の内実について、(2)「和田心臓移植事件」の真相について、ほとんど他の誰にも黙して語らなかったことにある。
私はこれまで、何度か巧みに誘導して、この(1)と(2)に関する本音を吐かせようと努力したものの、結局のところ徒労に帰した。
彼は時たま、(1)についてだけは、問わず語りに話すことがあった。
とはいえ、それはすべて、少年の頃の甘酸っぱい感傷にまみれた、取るに足らない断片にすぎなかった。

思うに、Teiは特に40代に入って医療の専門分野の深みにはまるほどに、視野の広がり・豊かさを失っていった。
言ってみれば、医者として患者の胸部の疾患にメスを入れれば入れるほど、自らの生を意味づける歴史的・社会的・構造的な状況に解明のメスを入れることができなくなった―。

彼の生‐死は、私に重く問いかける。
一個の人間が「医者」(専門家)という生業(なりわい)で生きるとは、どういうことなのか、と。